全国キリスト教学校 人権教育セミナー

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2004年度 第15回

期間:2004年8月2日(月)〜8月4日(水)   場所:西南学院中学・高等学校

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浄土真宗本願寺派「松源寺」

 黒田長政が関ヶ原合戦後、福岡の地名をもって入国したのが慶長5年。播磨より皮革職人を移らせ、被差別部落を形成させる。村の中につくられたこの松源寺には、1800年に黒田藩により惨殺された「寛政義民五人衆」の過去帳が残り、今も10月30日には追悼法要が営まれている。

松源寺正門(濡衣山の文字が)

部落の歴史について話を聞く

命を投げ出して部落を救った五人衆

寛政義民五人衆の墓

門は川に面し川向こうは別の世界だった

 1929年五人衆130周年を機に、松原水平社によって建てられた。(碑の建立叶わず)

 

 

感想

 地形を見、部落の構造と有様を説明され、地理的分断、塀による外部との遮断、部落のおかれていた状況が判った。また、寺は部落の人々の命を守ってきたことも「寛政義民五人衆」の話や、明治に入って「筑前竹槍一揆」の際この被差別の村も焼き討ちにあった。しかし村と寺は直ぐに再建された。寺の再建には近隣の寺や部落からの支援があって実現したことも説明された。
 寺が地域の心の支えであり、身分制度を超えた連帯の要になっていた。また、部落同士も支え合っていた事実を確認できた。 被差別部落が、身分的に最下層に位置づけられ、悲惨な生活と聞かされる一方、強い絆で結ばれ時代を生き抜いたことを知った。
 また、資料より「(部落)解放令」について知り「学制」頒布の事を知り、いち早く「学校許可願」を出す。 この地は大正時代の水平社運動や中心的な役割を果たした松本治一郎の働きに繋がってゆくと思う。住民の連帯は学ぶことによってさらに強められ、人を排出し時代の難関を乗り越えてきたからである。部落の歴史は、開放と自由の獲得の歴史である。そして、その歴史は、今も書き続けられている。

 

自主識字学級「夜間中学」

 

 1997年に開設した自主夜中。

 毎週水・金の6:30〜8:30
 およそ20名の生徒とほぼ同数の無償ボランティアによって学び舎が運営されている。
 生徒のほとんどは在日朝鮮人一世のハルモニたち、ボランティアは教師・退職教師・学生・市民と様々である。

「自主夜間中学よみかき教室」福岡市立千代中学校内

 

感想

 夜間中学の教室に案内され、戦時中の強制労働と戦後の帰国、帰国を果たせなかった人たちの集住地域形成と歴史の説明を受けた。また、在日となった朝鮮の人たちは働くことに追われ学ぶ機会がなかった。在日一世のハルモニ(おばあさん)たちのために夜間中学を始めたとのこと。文字を覚えた喜び、学ぶことの意味の大きさが実感として理解できた。

 

朝鮮幼稚園 在日朝鮮人集住地区「金平団地」内

 戦後、引き揚げ船を待つ朝鮮人たちは、次第に川の上に雨露をしのぐためにバラック小屋を建て居住するようになる。行政当局の強い立ち退き命令に対し、交渉団をたて粘り強く交渉した結果、県と市が集合住宅建設を約束、東区周辺に3箇所の団地ができた。住宅だけではなく、共同浴場、集会所、幼稚園を併設する。その後も老朽化による建てかえ交渉は続き、今年度より高層住宅化建設に入る。 朝鮮幼稚園の教室を借りて、在日朝鮮人一世の方から、引き揚げから今日までの福岡における在日朝鮮人の歴史と現在を語っていただく。

趙 宗泰氏による証言 在日朝鮮人一世

 趙 宗泰(チョウ ジョンテ)氏は、日本に来て68年になると述懐。趙 宗泰氏の生涯は「進歩と改革」1991/12、1992/1に掲載とのこと。以下聞き取り記録。
  1947年 レッドパージで在日朝鮮人19名もパージされる。炭坑での(労働運動?)政治的に追われた。
  1936年4月 13歳で日本に、日本で勉強したいとの動機。山口県に兄が居ると聞き訪ねた。 父が社会運動:独立運動をしていて、渡航証明でなかった。しかし、勉強のために臨時渡航証明。兄に会えず帰国しようと思うが親は刑務所に入れられ帰れず。 梅田(大阪へ)ガラスの浮き球を作る工場で働く。生活の見通し立たず辞める。 
 北海道の縁者を訪ねる。お金を使い果たし、札幌駅に一週間。(駅員ら食べさせてくれた。) 伯父に出会え、半年伯父宅に。岩見沢中学受験。合格したが、いじめに遭う。日本人に仕返しをし教師より退学を命ぜられる。 徴用により工場で、木製飛行機を作らされる。
 その後砂川の炭坑へ、タコ部屋に1年半。16歳で同胞が沢山居た。自分には夢があると、小野寺という人に頼み込み機会を見て逃げ出す。雪の中を3日も逃げ、夕張炭坑へ。 夕張炭坑にソウル朝鮮大学校卒業していた河さん(寮長)に出会う。外出証明書をくれ、函館へ。祖国報国会の人に会う。また、稚内へと連絡役。朝鮮への帰国運動をする。旭川に30名集まる。2年半で返す予定で徴用(強制連行)。しかし、会社は返さない。再契約。抗議運動を起こす。
  昭和19年8月札幌で祭りがあり、警察も祭りに出かけた。炭坑でストライキを行い監視等2500人を縛り上げ、坑内に閉じこめる。 
 代表を寄こせば交渉に応じるとの話に、23人を出すがそのまま警察に 次に13人。代表は戻らず、警察では拷問の毎日。
 無期から10年の懲役。網走の刑務所に、3週間逃げるが、その後は独房に1ヶ月。 拷問は、皮のベルトで固定され振り回され内蔵が出そうな苦しさ。耳から電極を入れられ電気ショック。真っ赤なコテを腹に当てられ直るとまた当てられた。内蔵が見えるほど酷かった。
 朝鮮の親、兄弟も酷い目に遭う。(日本での行状が伝わっていた) 8月15日終戦。6時に起こすところ、9時。10時半集合。玉音放送。
 8月20日釈放。警察と裁判所に非を認めさせる。 〔帰国準備〕 下関に来たら、船待ち。 朝鮮は、日帝時代の権力者をそのまま、役職につける。
  1953年に朝鮮連盟、1955年朝鮮総連に。朝鮮総連を組合が強かったときは、支えてくれた。最近の右傾化に心配。憂慮する。 
〔質問〕 朝鮮人で3万7千人が、北海道で死んだ。7ヶ所の炭坑。 日本には、38万の人が徴用で来た。内16万の人が帰国。 

感想

 日本の戦争中の犯した罪を、具体的にその体の傷とともに存在をかけて語ってくれた。私たちは、どのように謝罪しまた共存の道を探すべきであろうか。 人は、なぜ戦争状態の中とはいえ、これほどまでに残虐になれるのだろうか。戦争への道は再び開かれようとしている、いや、日本は歩み始めている。食い止める道筋は無いのか。

研修参加者:松井 務

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Revised: 2016/02/11.